会名由来/部誌・会報掲載記事抜粋

「やぶなべによせて」

6代 棟方啓爾 (昭和34年12月発行「やぶなべ第5号」より)

 先日、母校へ遊びに行って意外に思ったことがある。校門前の停留所でバスを待っている生徒の多くが、皮のカバンを持ち靴をはいていることである。わずか5〜6年のうちに、その服装だけについてみても、こんなに変わるものだろうか。皮のカバンは中流以上の坊っちゃんか、そうでなければ、スタイリストの所有物だと見られがちだったのが、私たちの時代であった。といっても、帽子をガギ裂きにして油をぬったくり、寛一まがいのマントをひっかけ、足駄がけで闊歩する生徒は、もうその頃ではまったく影を消していた。それはそうした服装が、一見野暮ったい感じを与えはするが、実際は一種の男性のおシャレにすぎないのだという見方からくる照れ臭さがあったことと、青年前期の敏感な価値判断が働くようになって、そんななりではもう女性の魅力の対象にはならないと感じたからだった。それでも、廊下を下駄ばきで歩いて先生に叱られるやつがおったくらいだから、まだ野趣が学生気質として多分に残っていたわけである。
 たしか、2年生の時だったと思う。校長室に呼び出され、生物班を代表してこっぴどく叱られたことがあった。理由は生物班員がニワトリの羽根毛を実験台の引き出しに入れておいたからだというのである。
 身におぼえのないことだったが、即座にそれは生物班員ではないと、釈明するわけにはいかなかった。それくらいの悪戯は、それまで何度もやったことだし、それに実際班員の誰かがやったに違いないと、自分も思えたからだった。
 毎年、文化祭の1週間前になると、生物教官室に泊まり込み、骨格標本を作ることを良いことにして、猫や兎を味わい、それを宿直の先生に素知らぬ顔で食わせてやろうと計ることに、楽しさを感じていたのが6代目生物班員の偽りのない姿だった。
 事実、こうした思い出が、今でも一番鮮やかに記憶に残っているのである。こうした当時の生物班員気質から生まれたのが、“ヤブナベ”という名であろうと、私は解釈している。いまこうした在校生と卒業生を結ぶ会を作ったとしても、これとは別のもう少しスマートな名になっていたのではないだろうか。命名者は当時イナゴのmicro penis の研究に一生懸命だった、三上喜四郎先生である。先輩と後輩が同じ鍋を囲んで、駄弁を交わすのがその時の趣旨だった。実際の発会式は1年遅れた昭和27年、生物実験室の裏にある池の前で、小使(校務員)さんから借りた鍋を囲んで行われた。
 1952年だから、いま世論をわかせている安保条約が発効した年と偶然に一致しているわけである。あれから8年、自然科学部から独立を叫んだ私たちの声は、野趣におぼれていたためか先生も生徒会も耳を貸してくれなかったが、いまではその生物班も生物部へと大きく成長し、部員数も多くなった。高校生活もだいぶスマートになったというのが、私たちがうける、偽りない感じである。「ヤブナベ」という言葉からうける感じも当時の私たちが感じたものとはだいぶ隔たりができたのではないかと思う。年々会員が増し、年令の開きがますます大きくなってくるだけに、私たちにはこの会の名が、新会員に異質な感じを与えていないだろうかと、時折心配になる。ことば足らずで理解していただけるかまことに覚束ないのだが、私はこうした意味で、来年の10周年を迎えるにあたって、次のことを先輩や在校生のみんなにお願いしたい。それは「ヤブナベ」のスペースをもっと先輩のために、在校生の生活体験を書くために割いていただいて、このヤブナベをほんとうの交流の場にしてはどうかということである。
 現在のように、年1回集まることだけでも、他のクラブに誇っていい立派なことだと思う。だが会員が多くなるにつれ、折角の年1回の機会にも県外で生活しているためなどで、出席できない人が多くなっているのも事実ではないだろうか。せめて各代の代表者が、その代の人たちの業績発表だとか、結婚だとか、その代の消息だけでも投稿するようにしたいと思うがどうだろうか。
 「ヤブナベ」会を固定したイメージで沈滞させてはいけない。毎年、その年その年の思い出を残し、常に新しいイメージを付与して、いつまでも続けていきたいものだと思う。


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