会名由来/部誌・会報掲載記事抜粋

やぶなべ.やぶなべ.やぶなべ

3代 鈴木二好 (昭和44年12月発行「やぶなべ会報」創刊号より)

 “やぶなべ”も、すでに14号、今年は20周年を迎えるという。
 ここに創刊当時を思いおこすことも何かの意味をもつだろう。
 それはものすごく薄い、生徒たちの手による「ガリ刷り」の白い表紙のついた無名の小冊子であった。
 新町の『つしま』のわきの東興グリル?だったかの2階に集まって、その創刊を祝ったのである。
さて、その誌名をいろいろと考えることになった。
 われわれの生物部、時間外・時間内などと云われた時代、自然科学部生物班の時代、生物部ならぬ殺し部だと云われたり、とにかく思い出は多い。中でも毎年の文化祭は最高の楽しみであった。
 いつものように徹夜に近い準備、朝になって昨夜足駄で歩いた石ころ道にきもをつぶしたり、顕微鏡を覗きすぎて帰宅した後も左眼がモウロウとしていたり、屠殺場からハンマーでたたき殺した牛の頭をもらってきて大きな鍋で煮たり(骨格標本作り)……なんでもその翌日ラグビー部員がカレーライスを作ったら非常によいダシ加減だったとか……その骨格標本作り、解剖に名を借りて旧兵舎の屋根裏をかけ歩き、ハトを捕らえヤキトリを楽しんだり、解体したニワトリの不用部分を空腹でもないのに胃に詰め込んだり、たまに他の部員や近所のオバサンからネギの差し入れがあったり、そんな古き?よき時代であった。
 本題に戻ろう、誌名である。現在の部員、いや卒業生を含めて10代目あたりの人たちから「なんだ、この名前。いったい“やぶなべ”なんてどんな意味なんだ」といわれたことがある。バッジはオオムラサキからハチに変えられたが幸いにして誌名“やぶなべ”だけは、それだけではない。他部にはほとんど見られない夏の会もそのままの名称で残されていることはうれしいことである。
 「そんな名前をつけてもよいのか。将来大きくなって全国的に知られるようになっても恥かしくないのか。もう少し考えよう」 下山先生がそう心配されて発言、しかし、我々にはそれしか誌名は浮ばず、ついに決定を見たのである。
 “やぶなべ”この変な誌名、どこの生物部にこんな会誌、研究誌があるだろう。それがまた、一度きいたら強く印象に残る所以でもあるのだが。
 最初“やぶなべ”の“やぶ”は漢字であった。それも創刊号だけであるが「草薮」の「薮」である。すなわち“薮なべ”である。
 そもそもこの“やぶなべ”、旧制高校でよく行われたという(明治百年の影響か最近でも回顧主義者たちによって色々な形で再現されている)「ヤミナベ」、すなわち暗闇で鍋をかけ思い思いに具を持ち寄り全員が入れ終わり味付けされる。あとは、たとえゾウリの切れ端であろうと、薄くなった中じきであろうと食べなければならない、あれである。「これはまた素晴らしいカツだなあ」などと言いながら。
 そこで我々もそのマネとまではいかなくても、文化祭のあと、もう干上がってしまった「三四郎池」の脇で(もちろんその頃はそう呼ばなかったが…この池のスイレンの葉を裏返すと3枚に1枚はヒドラがついていたし、中の住人?フタオカゲロウの生活を研究した仲間もいた…そんな無名の池であった)ナベを持ち出して御苦労会をやったのである。「ヤミ」ならぬ『草ヤブ』のなかで。
 それ以来、このイキモノたち。騒音のネブタ祭りなど眼中になく、8月の第1日曜日には山へ行って澄んだ空気を吸いながらナベをつつこうじゃないか、とアマノジャク振りを発揮することになったのである。場所は採集にいって見つけた適当なところを在校生が選んで会員に通知する。水源地.田代高原.清流の駒込川.中沢.油川八十八ヶ所.桑原.萱野茶屋など、最近ではその選定が大変なくらい手あたり次第に歩き潰した。
 しかし、次第に参加者が少なくなった。もちろん人数が多くなったことも原因であるが、直接生物に関係のない職につき、夏は特に多忙、そんな風に社会に散っていったためである。
 たまにはとんでもないナベになることがある。田代でのナベの片方にあやまって石油を入れた。掬ったが野菜などにそれがついた。「変だ。変なにおいが、石油臭い」などといいながら350円も出して1杯の汁わんの肉汁を胃に流し込んだり、ちょっと釣にでかけ帰ってみると溶けたジャガイモだけだったり、これでもまだ良い方とだったことも度々。それでも遠くから休暇を取って参加したり、出張にしてきたり、とにかく最初からこの日を忘れず、義務感以上の気持ちで集まったものである。
 あまりにも有名?になった部の研究のためか、採集旅行にでかけたり、進学に追われるためか、在校生の参加が減ってきている現象はなんとしても残念なことである。
(昨年都合で欠席したためか、文化祭に行ってみたら1人しか顔をおぼえていてくれなかった) 卒業生が多く150人を超え、職業もさまざま、その人たちが年に一度、夏に集まることを楽しみにしている。お互いに名も知らずに別れても、どこかで会えば声をかけあう、そんな仲間になったのである。
 とにかく“やぶなべ”にきまった会誌は今では全国的に有名になっている。九州までも送られている。これもみな後輩たちの継続研究、伝統を作った先輩たち、それにもまして色々とご指導くださった顧問の先生たちのご援助、ご指導のたまものであると思う。 最初の書き出しと文が変わってしまったが、在校生に言わせると20年も前の先輩が思い出すままに書いてみた。まあ夏の会では多数の会員、同じナベの汁を食べ合った人たちと会えることを期待してペンをおくことにする。


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